キリスト教の基礎A リアクションレポート

約1750字(要求:1200字以上)
长按下面正文选中全部复制粘贴。开头那句已经改成「黙示録6章10節」,跟后面对上了。

今学期の「キリスト教の基礎A」を振り返って、私が取り上げたい聖句は二つある。一つはⅡコリント12章9節の「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」であり、もう一つは黙示録6章10節の「聖なる、まことの主よ、いつまでですか」という叫びである。

まず一つ目について書きたい。この言葉を、私は第4回で扱われたアブラハムの召命と重ねて読んだ。アブラハムは「行きなさい」という神の言葉だけを頼りに、生まれ故郷も、血縁も、父の家も離れていった。このときの彼は、どう見ても強い人間ではない。信仰とは何かをはっきり理解していたわけでもなかったはずである。それでも彼の中には、「行く先を知らずに出発する」という力が確かに働いていた。

見知らぬ土地で、見知らぬ人々の間に立つとき、彼個人の力はあまりにも小さい。しかし神の祝福を受けた彼の歩みは、個人の成功で閉じることなく、「地上のすべての氏族」へと向かっていく。造られた人間は、神の呼びかけによって旅する者となるのである。そしてその旅の途中で、彼は何度も挫折する。しかしその挫折は物語の終わりではなく、むしろ物語の続きであった。

この聖句は、現代社会に対しても鋭いことを語っていると思う。弱さを抱えた人、挫折を経験した人、人生の低い場所にいる人、慣れ親しんだ土地を離れざるを得なかった人――そうした人々は、しばしば「弱者」として括られ、成果で人を測るこの社会の中では「失敗した側」「力を持たない側」と判定されてしまう。

しかし実際には、そのように判定された人々が日々働き続け、生きることを諦めずにいるからこそ、私たちの社会のシステムは回り続けているのではないか。目に見える成果や肩書きによって数えられることのない人たちの営みが、実は社会を下から支えている。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という言葉は、強さを勝ち取った者だけが価値を持つという私たちの尺度そのものを、静かに問い直しているように思う。

二つ目に取り上げたいのは、黙示録6章10節の「聖なる、まことの主よ、いつまでですか」という叫びである。この言葉の背景には、帝国の支配のもとで圧迫され続けた教会がある。黙示録は、世界の破滅を予告して人々を恐怖させるための書物ではない。むしろそれは、圧迫されている教会に向かって「帝国は絶対ではない」と告げる抵抗の書である。

皇帝が「主」と呼ばれる世界において、「イエスは主である」と告白することは、国家を神聖化しないという信仰告白そのものであった。そのような状況の中で、信徒は声高に何かを主張できたわけではない。霊が「言葉に表せないうめきをもって執り成す」ほかない場面で、彼らは自分の行いと選択によって、自らの信仰を示すしかなかったのだと思う。

教会は夜を否定しない。しかし夜を永遠のものとも認めない。教会は、赦しをもたらすメシアの朝を待つ見張りとして、到来する朝の側に立ち続ける。そしてこの姿勢は、信仰者の精神の強さという話だけで終わるものではないと思う。前半で書いたように、弱さは力を持たないことと同じではない。絶望のただ中にあってなお朝を待ち、自分の立つ場所を手放さないという態度こそ、成果と速度に追い立てられる現代の生活の中で、私たちが学び直すべきものではないだろうか。

最後に、この二つの言葉について、最初に読んだときの理解と今の理解の違いを記しておきたい。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」を最初に読んだとき、私はこれを「神が力を与えてくださる」という約束として受け取っていた。弱さはやがて取り除かれ、その代わりに強さが与えられるのだ、と。しかし講義を通して読み直すうちに、そうではないことが分かってきた。ここで語られているのは、弱さが消えることではなく、弱さを抱えたままのその只中でこそ力が働くということである。パウロは棘を取り去られなかった。それでも彼は歩き続けた。

「聖なる、まことの主よ、いつまでですか」も、最初は絶望の叫びだとしか思えなかった。信仰を失いかけた人の言葉のように聞こえたのである。しかし今は、これは信仰が許した訴えなのだと考えている。神に向かって「いつまでですか」と問えること自体が、まだ神を信じているということだからである。それは夜の底から発せられながら、到来する朝の側に立つ声であった。